JOURNAL
【想いをつなげる】美しい北アルプスに囲まれた雪国、信州の大町市で綿花畑に挑戦しつづける人の物語。
現在の日本では数少ない「綿」を中心とした紡績工場が長野県大町市にある。古き良き技術と最先端の技術の両方を活かした糸づくりを続けるこの工場では、数年前から敷地内の一角に綿花畑を設け、毎年少ないながらも綿花の収穫を行ってきた。なぜ、この地に綿花畑が作られたのか。綿花畑で何が芽生え、実ってきたのか。畑の守り人でもある近藤紡績所 大町工場の一志(いっし)勉さんにお話をうかがった。
今年で39年になるかな?もともと出身が地元の大町で、自分は途中入社で26歳の時に大町工場に入社した。それまでは、まったく違う業種を経験していて金融関係とか…なぜか金融というとみんな怪訝そうな顔をするよ(笑)。しっかり地に足が付いたモノ作りがしたいと思って転職したんだ。それからは、ずっと大町工場に勤務している。担当の部署は、紡績の品質に関わる重要な部品であるゴムローラーを管理する部署に長く在籍しているけど、今は綿花栽培も担当させてもらってるね。
——大町工場ができた当時からお勤めされているのですか?
工場が完成する前の昭和57年10月に入社したよ。工場の建屋は大体できていて、これから機械を導入するくらいの時だね。実は、当時自分は全く知らなかったんだよ、この工場で何を作るかは…噂では宇宙服を作るところだとかって(笑)。
——では、この工場がどう変わってきたか全部ご存知なんですね。
そうだね、歴史は今の部署のノートにもしっかり記録されてるよ。やはり一番変わったのは、近藤紡績所が新しい繊維開発をやり始めたときだね。その年が2015年で、変革の年に色々と集約されて新しいものをつくろうと。この工場や会社のすべての人が手探り状態で、どういった糸ができるのか誰もわからなかった。それまでは普通の綿100%の糸だけでやってきたし、その他の知識も技術もわからない事の方が多かったから、全従業員からいろんなアイデアを聞いて「どんなものを作りたいか?」をみんなで考えながらやり始めたんだ。まあ、それからのスタートで早6年になるね。
前とは産地や品種も異なる綿も使い始めたし、今までは整った均一の糸だけを作っていたんだけど、それだけでなく、わざわざムラのある糸を作ったりとか。数多くの研究をしてきたけど、うまくいかない方が多かったかな。その中でもいくつかは成功して製品化されたものはあるね。
——大町工場の歴史は生き字引のような形で覚えてらっしゃるんですね。
生き字引であればいいんだけど、すぐに忘れてしまう…字引引いても白紙が多い(笑)。まあ自分が覚えてなくても、この工場の出来事や、どんな糸が作られてきたのかは、ほぼ記録されてるからね。企業というのはデータの蓄積。データの蓄積は技術の蓄積につながって、企業の開発力や対応力の礎になると思うんだ。そして消費者に喜んでもらえる製品を届けられたらいいなと思うね。
「これから新しいことにチャレンジしていこう!」ということで綿を見つめ直した時、長い間、自分たちは紡績や綿、綿花に携わってきたけど、綿がどういう形で育って収穫されて、自分たちのところにやってくるのか?を知ってる人が、ほとんどいない事に気づいたんだ。じゃあ、まずは自分たちの手で綿花を育ててみようということで、このプロジェクトが立ち上がったんだよ。
——工場で綿花を育てることに何か目的があるのでしょうか?
自分たちの手で実際に綿を育ててみる事によって、本当に綿ってどういうものだろうか?ということを知ることができる。そうすれば、綿の性質とか特徴などの理解をよりいっそう深める事ができるはず。そこで得られた理解が、紡績工場のレベルアップにつながり、品質向上に繋がるし、製品に対する愛着も生まれる。これが目的のひとつ。それともう一つは、原料から製品までのすべてを国内の生産体制でチャレンジしてみようということで、ここ大町でできた綿を原料にして最終製品にしたらどんなモノができるのかを知りたかった。このプロジェクトの意義としては、綿をもっともっと知るっていうことが一番大きいね。また、綿花畑を通じて地域社会への貢献とか理解をしてもらって、情報発信をしたいというのも目的のひとつかな。
一番最初に手をあげたのが自分で…と言うより自分以外手をあげる人がいなかった。自分には好奇心旺盛なところがあって、元々実家が兼業農家で少しお手伝いをしていたので、多少なりとも農業の知識もあった。最初はほんの軽い気持ちでこのプロジェクトに賛同して手をあげた事が始まりだったかな。でも実際の作業となると、一人では開墾なんて無理だから。色々な部署から応援に来てもらって、自分で重機を操縦して土を掘り起こすんだけど、最低でも30 cm は掘り起こさないといけない。30cmくらいの深さだとそんなに大変なようには感じないと思うんだけど、ここは石場だったからすごく大変だったよ。重機で大きな石をとる作業はできても、あとの小さめのは重機で取れないから手作業でとって...それはもう危険で大変な作業。石を実際に取ろうと思うと腰くらいまで掘り起こさないといけないからね。
——畑の入り口に「開拓魂」と書かれた石がありましたね。この場所から出てきたものですか?
そうだよ。あれくらいだと、この土地からでてきた石としては、まあまあ大きい方かな?「開拓魂」と書いてあるのも、そういった精神でやっているつもりでね…そんな感じで石をとり終わったらトラクターで平らにして、それでみんなで畝を作って畑づくりを進めていったんだ。初めての綿花畑は13m程の畝を5本作り、90本くらいの綿の木を栽培した程度だね。今では作る綿の種類が増えたし、1品種ごとの収量がある程度必要なので、約330平方メートル、約100坪に拡大されてる。
——この畑では、どのような品種を育てているのでしょうか?
今この畑では全部で10品種栽培していて、陸地綿(*1)ではセルベス、アプランド。アジア綿(*2)では和綿(*3)の信州、大島在来。またカラーコットン(*4)では茶綿や緑綿等。それから試験的に交配種や特別品種も栽培している。それぞれ特徴があり、雨に強い和綿や早く実るセルベスなどは作りやすく、一方で陸地綿は総じて害虫が集まりやすいと思う。あと、今まで紡績に不向きとされてきた和綿は、独特の優れた特徴を持っているので、今後その特徴を生かした製品を作るのも面白いかもね。種にもそれぞれ特徴があって、陸地綿は和綿より種が大きいし、品種によって綿繰りの時、繊維が種から取り易かったり、取りにくかったりするよ。
(*1)中南米原産。アメリカ、アジア、アフリカなど世界で最も広く栽培されている綿。世界の綿花生産の約90%を占める。(*2)インド原産。インドから中国、日本へと広がった。繊維が比較的太く短い。(*3)アジア綿の一種。日本で江戸時代から栽培されていた綿。(*4)一般的な白い綿ではなく、茶色や緑の繊維を持つ綿。染色の難しさから積極的には栽培されてこなかったが、染色をしなくても色や柄を出せるため環境負荷低減の面で近年見直されつつある。
そうだね、3月くらいから作業は始まってきて、一番最初にやるのは、全面的にトラクターで土を起こして、畑の設計図を全部考えておく。その後、肥料を撒いて畝を立て、マルチビニールを敷いて、これで表面地温をあげたり雑草を防いだりしている。そしてビニールハウスを組み立てて、そのあとにやっと種をまく。種まきは先日、地元の保育園の園児と一緒にやったんだよ。ちなみに、種とは別に、実はポットでも苗を育てて植えてる。そのほうが早く成長して収穫できるからね。特に大町は寒くなるのが早いので、こういう早期栽培についても、まだまだ研究が必要だね。種をまいたら今度は水やりだね。始めは、ほぼ毎日水をかけてるよ。ある程度伸びてきたら支柱を立てる。綿の木は風や強雨に弱いものだから、そのままだと倒伏しちゃう。あとは害虫の防除をしているね。ある程度大きくなってくると、摘芯と言って高さを90cmに切って、横枝を伸ばして実をたくさんつけたり大きくなるようにしている。その後は無駄な枝を取ったり、草取りをしたりして収穫時期まで目が離せないね。他にも細かい作業はあるけど、おおよそはこのような流れかな?今日みたいに天気がいい日は、ハウスの上の天井ビニールを上げたりしているよ。いつも開いてるわけじゃなくて気候に合わせて上げたり下げたりしている。
今は、ほとんどひとりだね。開墾の時は色々と協力してもらえたけど、日々の世話となると、工場の現場も忙しいから。誰か後継者でやりたい人がいれば教えてあげながら一緒にと思うんだけど、なかなか教えるにしても一朝一夕にできるものじゃないんだ。畑の準備を始めたときは、信州大学繊維学部の先生方に色々と栽培について指導をいただけたのが心強くて、栽培自体は最終的に軌道にのせることができたので、本当に感謝しています。当初、信大の先生いわく「土壌は問題なく、水はけも良く栽培は可能です。ただし大町は寒冷地で、11月に入ると北アルプスの木枯らしや霜が降りるので厳しさはありますよ」と言われた。加えて、この土地では綿の栽培経験者が皆無だったから、地元のJAに聞いても綿の栽培を知っている人がいない。歴史的にも栽培文化がない地域だったという事もわかり、不安でどうなるかなと思ったが「誰もやったことがないなら、自分がやってやろう、出来るまでやるしかない」という気持ちに切り替えてここまでやってこれたよ。
——実際の栽培で大変な事は、どのようなことでしょうか?
まあいろいろ苦労はあるんだけど、やっぱりね自然相手なんでとても難しい…毎年難しい。ちかごろは強風の日が多くなり、ビニールハウスが飛ばされたり破れたりすることもあるよ。土日休日でも綿の管理が怠れないし、とても害虫が多くて防虫防除は欠かせない。ハウス栽培しているとどうしても熱がこもってしまうので害虫が出やすい。工場の周りは見渡す限りの田園風景で、どこから虫がきてもおかしくない。だから自分の出来る所は全部草刈りをしている。アブラムシ、オオタバコガ、去年大発生したのがオンシツコナジラミ。あとは夏になってくると必ず発生するハダニが困る、本当に困る…葉っぱが枯れ落ちてしまうんだ。最近ようやく気づいたんだけど、夜になるとそこに立っている構内街灯に虫がよってきてしまうんだ。今年は街灯を消してもらうにようにお願いしてみようかなとも考えてるよ。今後は効果的な害虫対策なんかも試していきたいね。それと、ここ大町は日照時間が比較的長く、標高が高いので、自分も結構日焼けしちゃうんだよね。皆に心配されほど黒くなっちゃう。
——今日も日差しが強いですもんね…その他に失敗などもあったのでしょうか?
「欲をかいてはいけない」という事を知ったよ。以前、収穫高をあげようとして石灰窒素を散布したら、綿の木が柔らかくなってね、枝が垂れてしまったんだ。何とか紐で支柱につりさげて修復したよ。撒いてしまえば後の祭り…その時は大変後悔したよ。本当に畑の栽培っていうのは、一年で一回しかできないからね…色々と試しながらやっとわかってきた感じだけど、部分的に色々とためしていかないといけないね。
今年は作付けが420本、すべての品種をいれて大体40 kgくらいを目標にしている。収穫をして綿繰りをして、種を取り除き綿だけにしておおよそ13kgぐらいを目標にしている。重さだと分かりづらいかもしれないけど、Tシャツで言うと約10枚程度かな?品種や品質にもよるけどね。
——その収穫した綿は、どのような使い道をしてるのでしょうか?
それを会社の方で検討してもらっているところだね。綿というのは実際に製品にしてみないと風合いがわからないから、どんなものでも良いから製品を作ってみたいなと考えてはいるけど、まだ実際には具体化されていない。今年、綿が収穫できれば、ある程度の量がまとまる感じかな?もうすでにある程度の量はあるけど、ギリギリ製品できるくらいの量しかないからね。失敗したらおしまいという感じの量だから慎重に進めてもらってる感じだね。それと最終的に製品にすることは、自分もそうだけど携わった人や地域の人が本当に期待している。そして大町で育った綿花の生地がどのような風合いになるのかを見て触ってみたい。製品にすることで、本当に1から10までの最初から最後までを実現できるし、プロジェクトの最終的な目的を果たしたいと強く願っているよ。
——地域の人が期待しているとありましたが、何か交流などあるのでしょうか?
畑の一部に名前をつけているんだけど「あすなろ通り」と言って、この地域にある「あすなろ保育園」から命名しているんだ。6年間続けて、そこの園児に種蒔きと綿摘み体験会を行ってもらっていて。ちょうど今年の年長さんが小学校に入ると、今の小学校一年生から六年生までの子が、ここで綿畑の体験をしたことになるよ。さらに、この活動が地域への拡がりのきっかけになって、一昨年くらい前に大町市の社会福祉協議会から綿の栽培について教えて欲しいと声がかかり、一緒に種を植えたりした。その栽培指導などを通じて、市内住民に綿花栽培がだんだんと拡がりをみせてきていて「コトコトコットンウォーキング」のイベントや「コットンの会」という活動へ繋がっていってるね。
——「コトコトコットンウォーキング」と「コットンの会」というのはどのような活動なのでしょうか?
大町市社会福祉協議会が主導している活動の「コトコトコットンウォーキング」というのは、市民の人たちが自宅の庭やプランターで綿花を育っててもらって、その綿の生育状況をウォーキングしながら各家庭を回っていく運動なんだけど、これは見守りや声掛け運動の福祉の活動につながっている。もう一つの「コットンの会」という活動には2年続けて種まき講習に行ってるんだけど、皆さん本当に熱心で色々と質問されましたよ。そこで採れた綿は、ぬいぐるみの詰め物にしたりして福祉活動に役立てている様だよ。これらのきっかけは、たまたま社協の方が保育園児のお父さんだったり、地域の人の情報であったりと、少しづつ綿花栽培が知られるようになった事かな。このプロジェクトを通じて地域に貢献し、広く情報を発信していきたいとの思いが当初からあったので、この様に綿を通じて地域と繋がりを持てた事は、皆で開墾して、綿作りを進展させて来た甲斐があったし、一番の嬉しい事だね。そう言えば他にも、この前は農業高校の先生が綿栽培について聞きにきてくれたな…この様な地域への広がりは正に望んでいたことなので、本当に嬉しいし、多くの皆さんに感謝の気持ちいっぱいですね。
正直変わったよ。工場内で使っている輸入の原綿の見方が変わり、長さや短さで成熟した綿か未熟の綿なのかが分かるようになってきて、検査ではわからないような事が触った感触でわかるようになってきた。少し変色ぎみの綿を見つけると害虫の影響がどうか気になって確認するようになったよ。害虫によって綿の糖分が高く(*5)なってしまうと言う事を育ててみて初めて実感したし、輸入された原綿が、現地のジン工場で、どの様にクリーニングされたかどうかもわかるようになったなど、今まで気にしていなかった部分まで気になるようになったね。ちなみに現場で、小さい綿とか綿くずが落ちているのをみると「この落ちている綿は、コットンボール一個分だな」と思ってしまう。これを育てるの大変だぞ…と。その農家の方々の気持ちがわかってしまったので、落ち綿1つでもすごくもったいないと思うようになったね。何かに活かせないものかと考えてしまうね。
(*5)収穫した綿の糖分が高いと、綿がべたつき、紡績の品質低下を招く。
——凄いですね。冒頭でお話いただきました綿花畑をつくることの目的が達成されていますね。
綿花栽培を通じて実際に体験することでしか得られない「綿に対する理解」を得ることができたので、自分自身は今まで以上に綿を深く見る事ができるようになったと感じているよ。紡績工程では、その使用原綿をしっかり見極めることで、各工程の最適な機械調整や管理を行うことができるようになるし、綿の見方を深めれば、必ず品質向上や生産効率をあげることができると信じているよ。でも今は、ごくわずかな人しかこの体験をしていないので、この大町工場の現場で働いている大勢の人が、この綿花畑に少しでも興味を持ってもらって、できれば実際に携わってもらえる事ができれば、綿に対する見方や考え方が変わって、きっと品質向上につながるはず。現場は本当に忙しいとは思うけど、どうにかやってもらいたいね。
——困難を乗り越えて綿花畑を成功させてきた、その想いをしっかりとつなげていくようにしたいですね。。
「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も」って感じかな。やればできる!
——本日は貴重なお話ありがとうございました。
(おわり)
一志 勉 Tsutomu Isshi
(株式会社 近藤紡績所 大町工場)
長野県大町市生まれ。特技 40代まで公認テニス指導員、介護福祉士。趣味はソフトボール。
1982年に前職の金融関連から転職入社。39年間勤務。紡績工程で重要部品であるゴムローラーを管理する職場に長く在籍。現在も同じく在籍し綿花栽培を担当。
【想いをつなげる】美しい北アルプスに囲まれた雪国、信州の大町市で綿花畑に挑戦しつづける人の物語。
Date: 21.7.2021
Interviewer: Yuki Shimizu
Text: Yuki Shimizu&Shinji Kobayashi
Photo: Shinji Kobayashi
Special Thanks: Kondo Cotton Spinning Co., Ltd. Omachi factory All Staff
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